⑦強迫的反復/逃げられない理由

■トラウマを受けた心は、無意識に強迫的反復をおこないます。

脅迫的反服”とは、恐怖を克服するために自分で咀嚼(そしゃく)して、解決を試みる。
(何度も繰り返す事によって、受け入れる。これは心理的な試み)


子供たちの遊びの中に「ごっこ遊び」や「ままごと遊び」があります。これらの遊びは、子供たちの視線から観た “日常光景が映し出” されています。また、トラウマを受けた子供たちも「ごっこ遊び」や「ままごと遊び」をします、が、これは『強迫的な繰り返し(同じ行動を繰り返す)』をすることで、自分が受けた辛い経験を乗り越えようとする、努力ではないか、・・と、言われています。

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子供の頃に、親のDVを見ていた、また、自分も虐待を受けていた、
などのトラウマがあると『強迫的反復』にて、それを繰り返してしまいます。

強迫的反復は繰り返す』とは、あんな親にはならない、あんな人生を歩まない、と思っている反面、『あの時、父親が母親を殴るのを止められなかった、けど、今度、私が結婚した時は、この人を直してやる」などの思いは、脅迫的反復にて親と同じ道を歩んでしまう・・

これらは全て無意識の流れの中で繰り返されます。(強迫的反復)


♪ 子供たちの遊びを観察した事はありますか?(実話)

私は、見て見ぬふり(陰から見守る)が、得意です。_(._.)_ だって子どもには伸び伸びと育って欲しい、でも、やっぱり目を離す事は怖い、だから陰から見守る、やりたいことは自由にやらせる。

そんな私が、目にした『日常光景が映し出された』ときの内容を一部ご紹介します。

ある日、2人の女の子が親の目を外すように隠れると「ままごと遊び」を始めました。
その様子が妙に気になった私は、物の陰に隠れて聞き耳を立てていた。

1人の子がもう1人の子に、小さな声でままごとの設定を話し始めた。

「あなたには、お姉ちゃんがいたけど、死んじゃったの、いい?」と、
「じゃぁ、救急車が来ました」と、声を掛けて、ままごとが始まった・・。

①「お姉ちゃん」が「お兄ちゃん」に変わり、また、戻った。
②「事故死から始まった死」は「突然、居なくなった」に変わり、死んだに戻った。
③「お父さんはお酒を飲んで暴力を振るう」が「お父さんは帰ってこない」
④「お父さんが家に居るとお母さんを殴る、ケンカばかりしている」
⑤「お母さんはお酒ばかり飲んで、ご飯を作らない。」
⑥「子供はお腹を空かせて、お菓子を食べたり冷蔵庫の中にある物を勝手に食べた」

この中の話の内容は二転三転コロコロ変わった、が、繰り返された言葉は『きょうだいの死』『親の暴力・ケンカ』『お酒』『お腹が空いた』です。これらの単語だけをpick upすると、この子が歩んだ、人生、また、話の内容は、この子の心の中に寝ずいた出来事、それら全てをミックスして、今、語られていた。

正に、トラウマ体験を “ままごと遊び” として表現(心の声を吐き出す)していた。
ままごと遊びは、子供の心を丸裸にしてくれる、のかも知れませんね。

子どもは子どもなりに、自分の心と向き合い、整理している、、、そう思えた出来事でした。
だから、親は口を挟まずに、ただ、見守る、

子供の心の声は、遊びの中で表現されている、のかも知れません・・(*^ー゚)


? 親(大人)の視線と子供の視線の違い。

親(大人)は、『小さいから直ぐに忘れる』『小さいから何も分からない』などと、言う。
私には、この言葉は、大人たちの身勝手な解釈に聞こえます。

どんなに小さくとも、言葉が理解できなくとも、子どもは、親が大人が醸し出す空気を読み取り、何を言いたいのか、子どもは子どもなりに理解します。

子供の頃の私は、上記の言葉を様々な大人たちから、何度も何度も耳にした言葉です。
その度に私は『聞いてはダメ、確認をしてはダメ』と、自分に言い聞かせた。

今思えば、子どもだって、自分に関係している出来事は、“聞く権利がある”、と、思います。
でも、大人たちが作り上げる壁は『子供が抱える思いを、大人に語れなく』しているのです。

当然ですが、子供は大人より言葉を知りません。
また、子どもは大人がいなければ、生きてはいけないことも知っています。

そんな子どもは、自分の思いを大人に伝える事は、出来ません。
だから、自分から問うことも出来ず、心の中に沈め込むのです。

それでも大人が声をかけてくれたなら、静かに耳を傾けてくれたなら、
子どもは、自分の気持ちを・・、僅かでも・・、語ることが出来るかも知れません。

語ることが出来た子どもは、
トラウマに悩まされることは、なくなるかも知れませんね。

子供の人生に、トラウマを植え付けさせないためにも、
子供の言葉で子供の思いを、ストレートに放出できる環境が欲しいものです。


私は、子育てをしていて思った事は、
私が育てているのではなく『私が育てられている』でした。
親は子供と共に成長します、p(^^)q