神戸の教員虐め

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虐めや暴力事件が起こると、必ず取り上げられる言葉に【 どうしてこのような事件が起こったのか。背景には何があるのか。 】と、虐めの内容を探る。

問題点の視点は、果たして、これでいいのだろうか?

確かに、『背景を知る必要はある』と、思うが重要なのは、加害者と被害者の関係を『良好な関係』と、して見てしまう、【第三者の視線】ではないだろうか・・と、思う。


良好な関係と評価する』、その裏付けは・・?

第三者は、良好な関係と評価してまうということは、“加害者と被害者を観ている”・と、言うことになりますよね、それなのに、“虐め“、として判断しない、その理由? その根拠は? と、考えてみた。

第三者は、まず『自分は関わりたくない』、『飛び火が来るのはゴメンだ』などと、自分の身を守る。残念ですが、ある意味でこの流れは仕方の無い事なのかも知れませんねっ。

そのため「もしかして、虐められている・・?」と、過ぎらせて、周りを見ると『誰も止めない』そして『イジり?』『じゃれ合い?』なら『仲が良いの?』と、自分自身に思い込ませる、そして、見て見ぬふりをするために、その場から姿を消す。

そんな第三者の視線をうまく利用するのが、加害者なのです。

でもね、加害者はこの行為を虐めとして行っているのでは、ないのです。結果として、虐めになっただけなのです。加害者は、ただ単に、“いつものように” と、無意識に行っているだけなのです。そのため、加害者には加害者意識が生まれない


その裏付けになるのは、元同級生の証言。

羽鳥さんの番組にて紹介された元同級生の証言です。粗暴なタイプ・イジり感覚・嗜虐性があった。そして、先生から可愛がられ、先生に対しては、すごく従順、先生の目が行き届かないところでは、人を選んで悪さをする。対象になっている人は、おとなしい反抗しないタイプ。言葉の暴力がひどく、罵詈雑言周りに強要する。

正に、虐め行動そのものだ。そこで私の疑問
・元同級生はこれらの出来事を観て知っているのに、、スルーしたのだろうか?
・加害者を止めたが、止めても、聞く耳を持ってくれなかったのだろうか?
・加害者を止めたくとも、止められない理由に先生の存在がある。
 先生を味方にしている場合、誰に相談をすれば良いのか、分からなくなる・・のも事実だ。
・そして、取材を受けた人、以外の人も、この出来事は知っていたのではないか・・。

加害者の虐めを黙認すれば、容認したことになる
誰1人として加害者を止めなければ、つまり、加害者の行為は『ダメだ』とか『虐めの行為だ』と、指摘しなければ、そこには、加害者の存在があるのだろうか・・? 

例えば “良い行い” をすれば、きっと誰もが褒める。この行為は『存在が認識されている』と、言える。でも、“悪い行い” をして注意をされなければ『存在は無視された』事になる。

こんな話を聞いた事はありませんか、子どもは、親に愛されているのか、確かめたくて、わざと『叱られる事をする』と、この行為は『自分の存在を認めて貰いたい』この思いからの行動なのです。この出来事に似ているように思えます・・・。

第三者の視線を集めたくて、虐めをするが、誰も何も言ってくれない、この流れは、加害者にとって『孤独』を意味するのではないか・・・・。加害者が『ワンフォーオール』この言葉を使ったのは、自分の孤独を語っているように感じた。


加害者たちの謝罪文

ここまで被害教員を大切に育ててこられたご家族の皆さま、このたびはこのようなあってはならない事態を引き起こしてしまい、大変申し訳ありません。ご家族の皆さまには直接お会いして、謝罪の辞を述べさせていただきたいと思います。 東須磨小の保護者の皆さま、そして子どもたちに、おわびをしなければいけません。いけないことを教える立場の私が、加害者となり、混乱と不安を与えてしまうことになってしまいました。信頼を裏切ることになってしまったことを、深くおわびしたいと思います。本当に申し訳ありませんでした。

子どもたちに対しては、こんな形になって申し訳ないです。子どもたちを精いっぱい愛してきたつもりですが、他の職員を傷つけることになり、子どもたちの前に出られなくなり、申し訳ありません。私の行動で、迷惑をかけてしまったことに対して、本当に申し訳ないと思っています。 被害教員に対しては、ただ申し訳ないというしかありません。
被害教員のご家族に画像を見せられ、入院までしている事実と、苦しんでいる事実を知りました。本当にそれまでは、被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです。どうなっているのかと、ずっと思っています。

自分自身の相手への配慮に欠ける言動や、軽はずみな言動に、最低な人間だと実感しました。一社会人として、人間として、恥ずべきことと考えています。もし、許されるのであれば、被害教員やご家族に直接、誠心誠意、謝罪したいと思います。
東須磨小の児童、保護者の皆さん、自分の身勝手な言動で、たくさんの迷惑をおかけしました。この事案を機に自分の在り方をしっかりと見直し、自分の言動に対して猛省を続けたいと思います。本当に申し訳ありませんでした。

相手のことを思いやらずに、自分勝手な行動で相手を傷つけたことを反省しています。被害教員をはじめ、私の行動で嫌な思いを先生方にさせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです。東須磨小の子どもたちや保護者の皆さんには、申し訳ない気持ちです。
私の犯した行為は、許されることではありません。東須磨小の子どもたちは、素直な明るい子どもたちなので、そこを伸ばしてほしいと願っています。ただ、私の行為はその成長の邪魔をしてしまったと思っています。

と、それぞれの謝罪文をネットにて見つけました。上記の三枚は気持ちがない、というか、いったい誰に謝っているんだろう・・と、思った。最後の一枚は、自分を責めている事が伝わってきました。この人も被害を受けていた、のかも知れない、と過ぎった。

日常的なセクハラ・暴言・イジりなどは、被害者の側には、きっと誰かがいる、つまり傍観者の存在があるのです。その傍観者がどのような行動を起こすのか、この対応によって『虐めがなくなる』か、『虐めが悪化するか』の境目なのです。傍観者が勇気を持つ事は、難しい・・と、思いますが、第三者の存在は大きいのです。その事だけは、覚えておいて欲しいと思います。

加害教師の言い分 『くそやな 後ろには校長という偉大な人がいる』 
         『お前が全部いったんやろ、ママによしよししてもらえ』
         『謝るんやったら、土下座でも何でもやったるわ』
         『話しかけたらパワハラになっちゃうから』

これらの言葉、驚いたなぁ・・、絶対教師の言葉じゃない、正に虐めをする加害者の言葉だ。でも『謝罪をしなさい』の言葉を投げつけられたならば・・・、それは、指導ではない、『悪いことをしたら、謝りなさい』と、言っただけに過ぎないからです、すると、『何が悪いのか分からない』と、怒りが増すのです、本当の指導は、そういうものではない・・と、思う、


言葉は難しいですね。
なんか、偉そうに書いている自分が・・・・・_(._.)_

校長が被害教師に言った言葉は、「いじめられてないよなぁ」

この言葉だって、誰にいっている言葉なのか疑問です『自分を護るための言葉』にしか聞こえない。

校長が教育委員会へ 、職員間で度が過ぎるからかい、があったため、面談・指導した。

この内容だって意味不明だよ『度か過ぎるからかい』とは、いったい何? と、聞きたい。

被害者教師の言葉、相談内容が加害者教師に知られたら虐めがヒートアップする。
         誰を信用したら良いか判らない。

ごもっともだよね、相談相手を間違えれば虐待は酷くなる。
そもそも、虐めはなぜ起こるのか、答えは『相手を見下す』からです。(存在も含めて全てを)

被害者からの訴えがないと、第三者には判らないのだろうか、これも疑問です。
常習的に行われている虐めは、きっと、誰かの目にとまっているはず、だからです。

大きな問題は、加害者には加害者意識がない。そのため加害者に一言いえるのは『第三者
第三者の存在は大きく、不可欠なのです。

無くなって欲しい、こんな事件・・どうすれば無くなるのだろうか・・。



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