攻められる人と攻める人。でも、問題は、それだけじゃない・・・第三者の存在。

なぜ、虐めや言葉の暴力は無くならないのだろうか?
ニュースを見つめて、いつも、考えさせられる。
最近の嫌がらせは、顔が見えないNetの中での・・中傷コメント。
加害者は本名も顔も世間に晒されないのに、被害者は世の中に晒される。
あまりにも “卑劣”だ、不公平だ。
それでも、きっと・・無くならないんだろうなぁ・・・・・・
けれども、“仕方が無い”・・と、諦めていいのだろうか。
ニュースを見つめてショックを受ける事件は、たくさんある、けれども・・・、
その中でも『性暴力の事件を訴えた』、なぜ、この人への攻撃をする。
ほんの一瞬で良い、“もしも自分が性暴力に遭ったら・・”、
そして・・・、そのとき、“あなたはどうする?” と、自分に問いて欲しい。
きっと、殆どの方は、訴えることに躊躇するでしょう。
だって、その後の自分を考えたら、訴える事に大きな不安を抱き、悩む、と、思うからです。
この事件は、訴えることに悩む女性の気持ちを利用した、“卑劣な犯行、性暴力”なのです。
つまり、女性たちの気持ちを代弁した出来事なのです。感謝し応援して当たり前なのです。
それなのに、それなのに、今も尚、SNSなどで暴力を受けている。
どうして、どうして、被害者は、二次・三次被害を受け続けるの。
やめてよ、なぜ、どうして、そんなに苦しめる・・・・・。
アメリカでは、人種差別問題がデモとなって叫ばれている。
虐めや暴力なども、人種差別と同じだと思う。
弱い者へ向けられる暴力は、社会でも、家庭でも、職場でも、学校でも、起こっている。
そして、今では、SNSという場で、言葉の暴力を連呼し続けている。
なぜ、そんなに人の心を砕く・・・・・
そんなこんなから問題点を絞り出すと、『第三者の存在』・・じゃないか、と、
被害者はいつも1人なのに、加害者には同罪となる仲間や傍観者がいる。
1:数人・・・・、第三者の存在は大きい・・・、と、考えます。

・加害者の言葉や行動を否定も肯定もせずに、
ただ、無視し続ける第三者も加害者である。
『第三者が示した行動・態度』で、傷ついた出来事は沢山あります。
その中でも『死ね』と、言われた時は驚きました。
自慢じゃ無いけれど、私の場合、虐めや暴力体験は何度もあります。
それが功を奏したのか、怒り狂う相手を目の前にすると、私は冷静になってしまう。
するとね、色々な事がはっきり見えてきます。
たとえば・・・
怒り狂って暴言を飛ばす人は、“仲間はずれに怯えている”? ・・と『可哀想な人』とか、
陰では一緒になって言っているのに、口を閉ざす第三者、を見つめて『卑怯な人』とか、
『一体、貴方の望みは何?』と、その人の表情や態度を見つめて、勝手に分析したり・・・、
私はやっぱり、変なやつです、ね・・・(‘-‘*) _(._.)_

※下記は、そんな体験の1つです。
「あなたよね、子どもが死んだのに生きている親って、なんで生きているの。私だったら絶対に死んでいる、なんで、あなたは生きているの、なんで死なないの。ねっ、ネッ、」と、
この彼女は、怒りは私へ飛ばし、仲間には同意を求めていた。
(仲間の人たちは知らんふり、“私は関係ない”という態度を取っていた)
この人は私の事など何も知らない、もちろん、私もこの人を知らない、この時に始めて出会った人なのです。それでも、噂話だけを信じて、仲間内で盛り上がった話だけを信じて、怒りの玉を作り、私へ、無責任に投げつけたのです。
そんな様子を冷静に見つめていたのは、私。
『こんな人は世の中に沢山いる。私の事を何も知らないのに、噂話だけで、いたぶる人。
でも、どうして、怒りながら連呼するんだろうか・・、
もしも、私が死を選んだら、この人はどう思う? イヤ、何も思わない、その事だけは解る。
私が死んでも、この人には何も伝わらないし、何も思わないし、何も困らない、
だから無責任な暴言を吐くんだ、それだけは明白だ』と。
自殺したプロレスラーの方の言葉を思い出す・・・、
“これらの言葉は、私が幼い頃からずーと心に秘めていた言葉です”、と。
実は、見ず知らずのこの方に言われた言葉は、私自身が子どもの頃から、ずーと、ずーと、心に秘めていた言葉なのです。だから怒鳴られながら『知っている、そうなんだ。でもね、死ねないのよ。私は、自殺した人を知っているし、残された人の思いを、誰よりも私自身が知っているから、あの苦しみは私だけで良い、誰にも味合わせたくない』と。
辛いんだ~ぁ、大切な人の死を見つめることは、苦しんだ~ぁ、もう会えないことは、
残った人の苦しみは言葉では表しきれない、残った人しか解らない悲痛さがある。
その苦しみを、貴方が大切に思う人に、背負わせないで、
お願いだから、死なないで・・、おねがい・・・
安易に人の心を傷つける言葉や行為はしないで・・、
貴方が考えているよりも、本人は、もっと、もっと、苦しんでいるのだから、
※私が、一番、問題視しているのは、『第三者』
上記に記載した場面は、小学校に入学した子どもの父兄が集まる集会の場。話し合いが終わり「解散」の声が流れた瞬間だった。(部屋には約30人ほど、怒鳴り散らす人が座るテーブルには5・6人)
私が一番ビックリしたのは、
傍観者の存在と一緒に言い合っていた仲間の態度だった。
怒鳴っている内容は『なぜ死なない、早く死ね、今も生きている事に恥を知れ』と、
誰が聞いても、そう聞こえる内容だ、しかも、何度も何度も繰り返した。
(数え切れないほど、“死ね” と繰り返した)
周りにいるみんなが聞き耳を立てているのに、
誰1人として、この人の口を、止める人はいなかった。
私の脳裏で過ぎったのは、
『これが、虐めか、クラスの中で、こんなことが起きたら、ここには居られない』。
残酷だよね、虐めも家庭内暴力も・・・ホント止めて欲しい。
第三者が、なぜ、声を上げない、声を上げて欲しいなぁ。
裏では、好き勝手なことをしゃべり続けているのにね、(陰口)
面と向かっては、自分だけを、保護している・・・・。
なんか、卑怯だね。
怒鳴り続けられて、いい加減にしての思いで「私だって、死を考えたよ、で・・」と、話している途中で「そうでしょ、そうよね、死ぬわよね、それが当たり前よね」と「なんで、貴方は生きているの」と、またまた怒る。
終わらない怒りを振り切って、私は、この場を離れた。

自殺を夢見る、あなたへ・・・
大切な人を失った・・・そのとき、
どんな思いに包まれると思いますか?
嫌われた・・、ゴミを捨てるように・・捨てられた。
それなのに、なぜ、私は生きている?
私はゴミなのに、なぜ、私は死ぬことも許されないの?
ゴミだから・・?
私は、なぜ、この世に生まれた? 必要とされていないのに、ゴミなのに・・。
どうすれば、死ねるの? 死にたいのに、死に方を知らない・・と、
当時、小学生時代の私の心が、声を上げずに叫び続けていた。
大切な人を失うと、自分の心までも失う。
そんな自分の心との葛藤の日々が続いた。
自分が生きているから、みんなが不幸になる。
自分が生きているから、家庭の中で暴力が始まる。
自分が生きているから、学校で虐めがある。
自分が生きているから・・・・・・・と、全て、自分が悪い、
それでも・・・私は、生きている。
この命が尽きるまで・・・・・・・